Kozu Art Club 高津高校美術部

美術部の思い出

佐々木先生の思い出

チュンさん。美術クラブの顧問だった佐々木節雄先生のことを、クラブの先輩たちはそう呼んでいた。なぜチュンさんなんだろう。高校の美術クラブに入部したばかりの一年坊主にはわからなかった。

「着たきりスズメだから」とみんなに教えられた。それは間違いだと私は思った。同じ服を着たきりなので服がみすぽらしい、そんな印象はチュンさんのどこからも感じられなかった。身なりはいつもこぎれいだった。でもチュンさんというニックネームが、佐々木先生にはやはりびったりなのはどうしてなんだろうと、私には不思議だった。

「チュンさんはいつも同じ色の服を着ている」との説を、ある先輩から聞いたとき、私は少し納得できた。チュンさんは茶色が好きだっ"た。服ばかりではなく靴やベルトやカバンや晴雨兼用のこうもり傘にいたるまで茶色い。つまり雀の色でトータルコーディネイトされていた茶系の色に派手さはないし、変わりばえもしない。しかし飽ぎが来ない色である。それにその場限りのハッタリとも無縁な色でもあろう。おとなのオシャレだと思うのだ。

チュンさんの茶色好みは、このひとの生涯にわたる美学であり人生哲学である。しかし十代半ばの高校生だった私は、茶系のなかの微妙な色のニュアンスを味わうためには子供でありすぎた。チュンさんは同じような色の服ばかり着る地味な先生に見えるだけだった。

講義のときのチュンさんは雄弁だった。しかしそれ以外のチュンさんは、またいつもの物静かな先生に戻った。お説教もないし、自分の主義主張の教養もなかった。ひとに怒鳴り散らしたり、冗談まじりにからかったりしているチュンさんの姿を見たことがない。一年生のときの私は、ほとんど毎日、放課後の美術室に油絵を描きに行った。チュンさんはいつもそこらをうろうろしていら。うるさいことは何も言わなかった。子供はかってに育つとでも言いたげだった。時々部員が描きつぶしたたくさんのパネルが収納棚のなかで乱雑にひっくり返っているのを見て、「もうちょっと整理したらどうだ」とか、誰かが床に落として踏みつけられてしまった絵の具のチューブを発見して「床が汚れる」とかぶつぶつ言うのはよく耳にしたけれど、結局それらを整理するのも掃除するのもチュンさんが自分でやっていた。自分自身も画家のひとりであるのに、教育の現場では主役にならず脇役に徹していた。生徒たちはそんなチュソさんに甘えて、困ったことは全部しりぬぐいしてもらっていたのかもしれない。

部活の思い出

「明日の放課後、スケッチブックを持って来るように」
と部長が言った。
「ちょっと、しごく」
とかれはつけくわえ、含み笑いさえした。

翌日の放課後、スケッチブックを持って美術室に行くと、「スケッチ十枚!」と部長が言った。「しごき」がはじまったのだ。部屋の一角に山積みになったがらくたがある。こわれた壺やほこりだらけの椅子、笠のとれたランプ、自転車の車輪だけ、割れた石膏像……。多種多様なオブジェだった。あとで知ったところによると、それらのがらくた類はチュソさんが長年かかって徐々に寄せ集めた宝物で、どの部分をトリミングして描いても絵になるという重宝な絵画モチーフだった。

一週間ほどスケッチの「しごき」があってのち、待望の油絵用具のセットを買うことになった。 セットという発想に対して、美術クラブはきわめて消極的だった。絵の具箱は早晩不必要になるだろうと言われた。絵の具や筆が増え、すぐに入りきらなくなるからである。重くて堅くてちいさな箱のかわりに、必要となるのは軽くて丈夫でおおきいズダ袋である。パレットもいらない。パレットはベニヤ板で代用する。絵の具はちいさなセットものでは間に合わないので、徳用のおおきなチューブを使う。自分の使う色の量に応じてさまざまなおおきさのチューブを買い、お菓子の空き缶などに入れて持ち歩く。

絵を立てかけるイーゼルは買うことも禁止された。絵は床や道路に寝かせても描くことができるし、どうしても立てかけたければ、世のなかのいたるところに壁というものがあるではないか。

筆洗や油壺もぜいたくだし小さすぎるので不必要だ。缶詰の空き缶をいくつも用意しておくこと。必要なのは、手足や顔についた絵の具を拭きとったり、筆やペインティングナイフの掃除、場合によっては筆がわりにもなるボロ布がたくさん。汚れてもさしつかえのないボロ服、ボロ靴。そしてノコギリと金‘‘っちだった。ノコギリで、ベニヤ板を切り、金づちを使って、釘で角材と、ベニャを打ちつけてパネルを作る。ベニャの自家製。ハネルに絵を描くのだ。美術室に麻のカンバスは見あたらなかった。

絵の具箱を肩にかけ、片方の手にイーゼル、もう片方には麻のカンバスと上等のスケッチブックを持ち、ハイキングがてら写生に行くという、漠然と思い描いていた自分の美術部での瀟洒な姿はどこにもなかった。私は絵の具とテレ。ヒン油と汗でドロドロになってゆく服と靴を身につけ、ノコギリや金づちゃお菓子の缶や缶詰の空き缶を詰め込んだズダ袋を背負い、軍手をはめた両手でベニヤ板のパネルと藁半紙を抱え、‘スボンのベルトに絵の具だらけのメリヤスのボロ布をぶらさげ、場合によっては汗の流れを止めるために魚屋さんのようにねじり鉢巻きをした得体のしれないスタイルになってしまった。

合宿の思い出

 高校美術クラブでは、夏休みに三泊四日の合宿が行われた。現役部員だけでなく、さんが講義で熱く語っていた卒業生の先輩たちも参加する大イベントだった。
合宿の目的は三つあった。
その一、集中的にたくさん描くこと。
その二、大きな絵を描くこと。「大は小を兼ねる」というのがチュソさんの考えだった。

その三、九月に開催される「高校展」出品のためのトレーニング。

私が一年生のときの合宿先は小豆島の漁村だった。午後三時頃、当地に到着してすぐに合宿のプログラムが始まった。馬酔木気分はご法度だった。海辺だからと言って海水パンツを持ってきたなどと言えら雰囲気ではなかった。その日はスケッチブックを持って下見にまわった。太陽の向きなどもチェックしておく必要があった。翌日からは、日の出とともに始まり、日の暮れまで絵を描き続けるのだから、太陽の向きを計算に入れて、午前はここ、午後はこことロケーションに目星をつけておかなくてはならなかった。

夕暮れ、私が疲れてとぼとぼ帰って来ると、ヒゲモジャのY先輩がもうすでに三点、シナベニャのちいさな。ハネルに絵を完成させ、民宿の縁側に並べ豪快に笑っていた。まだぎらぎらしている絵の具がパネル上に元気にとびはねていた。

その日の夜は自己紹介とクロッキー大会だった。「持ってきた。ハネルは全部こなせ」、'「白まま持って帰るな」、「ひとり最低十枚は描け」と、卒業した先輩たちが在校生を叱咤激励した。
それからノルマが告げられた。陽が昇るとともに起床、朝食までに三十号二枚、朝食後から昼食前までに六十号二枚、そして午後、陽が暮れるまでに六十号三枚。三日目の夜の合評会には十枚以上は朝飯前だ…… 。

初日にすでに三枚も油絵を仕上げてしまったY先輩を目撃して感動してしまっていた私は、やる気に燃えた。翌朝、私は誰よりも早く起き、身仕度をして、三十号を抱え外に出た。まだ薄暗かった。野外で本格的に風景画を描くのははじめての体験だった。気分は爽快だった。