Kozu Art Club 高津高校美術部

「自由と創造」の実践

はじめに。
高津高校美術部ホームページ立ち上げのこと

得点で競うことのできない芸術の世界で勝利を積み重ねることは高温に熱した環境、先生のご指導、チームワーク、それを維持しさらに強くする個人の努力、主催者が栄光を分け与えたい意思を圧倒的な強さで延々と続いた半世紀、青春の象徴として誇りとするか忘却を選ぶかは心のままに。

高津が高津でなくなり美術部が牽引してきた「自由と創造」が言葉だけになりつつある今日、高津百周年記念誌にわずか700字をもって幾多の青春を結集して成し遂げた行跡を表現することは自づからが痛々しくできることではありません。

もとより私に他の手段を用いる才覚はありませんがこの時代に適応できる人物にホームページを立ち上げて頂き高津美術部の縦糸を強固なものにし、今までのこと、今のこと、横糸も充分に生かし活躍状態を密に連携することは、新しい人達に高津美術部如何にあるべきか。新しい進路は、を深く鋭く考え再生への道の指針となると信じます。

自由と創造の実践

 校是に言う「自由と創造」は学業成績によって表わされるものではなく教育に付随する「生き方」の中に培われると考えられる。
高津を卒業したことを悔いている人を私は知らない。例え進学率の低下を知っても高津には他にない素晴しいものがあったと肯定し今もあると信じようとしている。

美術部史を書くことは闘争の歴史であり決して趣味の延長上にあるものではない、圧倒的に相手に勝る感動を与える作品が勝者となり、その累積が伝統となる。青春の血の滴る業であり、人生の基盤を作り、犠牲さえ伴うことである。

美術部のない学校はない.創立期の会誌にもその記事があるが美術史家として土井次義(中2)は長谷川等伯等を取り上げ、藤岡了一(中15)は東洋陶磁の研究で著名である。パリで客死した田中阿喜良(中16)はその地の労働者の顔貌を数多く残した。大河内正夫(中15)は創画会に属し重厚な風景画で日本画を越えた境地を開いた。平松保城(中22)は東京芸大教授にして金属工芸の日本的モダンを追求し熊谷(高7)等ジュエリー作家を育てた。

高津美術部の栄光の歴史

半世紀 我高津美術部は全国制覇を成し続けた。教育の場で高い評価を重ねることを主催者は歓迎しない。圧倒的に感動を呼ぶ制作を指導されたのは富田・佐々木先生の美術教育の信念と増地君である。部員の創造力を自由に伸ばす大きな人柄と理想的な環境をつくられ、その雰囲気をより高度なものとし、伝えて伝統がうまれた。佐々木先生は生涯を高津美術に捧げられ、我々は如何に「自由と創造」に生きたかをホームページによって発信するしかない。戦歴のみで簡略に終わるのは高津が高津でなくなりつつある今、誠に残念である。

進学のこと

美術部員が卒業すると大体公募展に入選する作品は描ける。即ちアマチュアの域をこえねば部員とはいえない。直木賞の藤原伊織は同期ライバルに勝てず著作に専念東大へ。
京大は上田昭時(9)高校展受賞。渡辺清治(15)全日受賞 工学部・住友金属役員。喜多川信介(16)全日本受賞・建設省(国土交通省)。辻雅衛(17)医学部・外科。水野千依(38)イタリアルネッサンスの研究・サントリー学芸賞。川地康治(41)食品化学を研究。
阪大、内科助教授 森本靖彦(7) 高津の教師や卒業生の守護神・愛染橋病院院長。建築学
森田孝夫(19)京都工芸繊維大学教授・国画会会員。
神大、谷口弘一(6)高校展受賞・公認会計士。
東京藝大 (中22)平松保城 彫金工芸教授。(高2)丹下敬二 彫刻、大角三郎(洋画)、(高7)原田州堂 大林組 高津旧校門は彼の作品。(高7)熊谷皓之 工芸 大阪学芸大教授 彫金作家育成。(高8)赤松武寛 工芸・神戸工科芸術大教授。(高10)浮田和夫 美術史、野中寿々子 洋画 ア-カンサス展、(高17)島影和夫 工芸

先生方は東京藝大卒ながら芸大進学を進められなかった。しかし 京都芸大には多数進学 森村泰昌(22)をはじめとしデザイン界では寺田茂樹(4)薮内晴夫(11)は著名。教育界、工芸、美学部門に多くの人材を輩出、現在注目される笹井史恵(44)は漆芸による前衛作家。京工繊大 能口育子(31) 志村ふくみ門下の染織家。
金沢美大、大西健之(10)電通・NTT、三越担当、紙魚庵執筆中。
他に医学関係に神大卒 土屋五郎(6) 日野泰久(37)がいるが各分野重要人物の欠落あり,乞許。

合宿制作のこと 

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若い作家は限界を超える肉体の酷使は絶対に必要である。食糧事情が悪いことも試練の一つであり、最初は京都堀川高校と宮津で行い、二回目は志摩波切で単独で、香住、小豆島、鷲羽山、犬島 ここでの山本正彦(16)の作品が朝日ジャーナルの表紙となる。
やはり頻度が多かったのは波切で、増地保男(14)の漁村風景の力強い白黒の作品は著名である。「陽のある間は帰るな」と台風の日突堤で描いた絵がとばされたり、夜明け前に描きに出ると漁村の犬が一斉に吠えて「警察を呼ぶ」という騒ぎもあった。先輩後輩で旅館がふくれあがり、キャンバス(ベニヤ)を運ぶトラックを用意したり機動力もものを言った。

若い努力は作品に奇跡をもたらす。合宿で自信をつけ多数の作品をチームが競って描くことで高津は他校にない力を得た。

SALON DE KOZU 高津美術展

Macintosh HD:Users:shibatamineko:Desktop:saron de kozu.jpg  旧校舎講堂の長椅子を演壇に積み上げて木枠に麻布を貼った壁面を作る作業ができるのは部員の多さとチームワークがなければできるものではない。

大阪府高等学校美術展と高津高校文化祭が同時期になり、校内で作品発表を独自にすると宣言し実施した。
Salon de KOZUは大谷隆彦君の命名で、麻布は佐々木先生が探して下さった。社会の高垣先生、数学の松田先生も出品され他校や父兄も驚嘆して見て下さった。講堂全体の壁面を作ることと制作するチームの力が相俟って、講堂の壁面が作れる限り高津美術部は成長し続けた。

大阪府高校美術展

学校の実力により割り当てられた壁面に各校が作品を展示した。高津はいつも最大の壁面をもち只一つの最高賞は知事賞で床並一弘(2) 城福一男(3) 橋谷治(4) 額田晃作(5) 原田州堂(7) 平山富弘(9)とほぼ高津が独占、時代も優劣を嫌う風潮になりランクによって賞を並列化して単独首位の時代を避けるようになった。大八車を借りて美術館まで作品を落とさないよう運んだ。野武士が城を乗っ取るような気持ちで車を押した頃が眼に浮かぶ。しかし高位の賞の独占は続いた。高校展は現在も続き今昔の感ひとしお。

全日本学生油絵コンクール

毎日新聞主催で審査は20世紀画壇を代表する作家によって行われ完全制覇は1958年
睦月邦年(11)最高賞, 大西健之(10) 前田典子(11)の受賞で成った、次は1959年岩崎旭人(12)の最高賞、柴田ミネ子(12) 安川武(13)受賞で学校賞を獲る。1960年最高賞 遠田泰之(13)、好川清(13)等の受賞で3年連続学校賞。全国で無敵高津美術部を印象づけた。1963年さらに喜多河信介(16)の最高賞、山本正彦(16)栗生克彦(16)で学校賞。1964年 特別賞 立花実(17)、同じく特別賞 島影和夫(17)、小田富士夫(17)受賞で学校賞。1965年 村瀬和広(18)立花実(18)島影和夫(17)でまたも3年連続最優秀学校賞。 佐々木先生の時代が終わりこれより増地先生

1979年 個人入賞 大村暁(33) 今西裕美(32) 北野麻美(32) 三人受賞ながら学校賞なし
1980年 個人入賞 杵築真理子(33) 大西寛子(33) 江波由紀子(33)
1981年 最優秀学校賞 個人入賞 福地夕起子(35) 友成雅則(35) 生駒尚美(35)
1982年 個人入賞 大谷史子(35) 全国綜合芸術 馳平恵三(35)
1983年 個人入賞 西岡貴美子(36) 魚谷聡一(37)
1984年 最優秀学校賞 大賞吉田公子(37)  入賞高田徳弘(37) 日野泰久(37)
1985年 35周年大賞 石原好恵(39) 入賞 黒野日和(39)
1986年 個人入賞 石原好恵(39) 全国綜合芸術 黒野日和(39) 金岡直子(40)
1987年 個人入賞 淵田有紀子(41)
1988年 個人入賞 吉岡かおり(41) 森本泰輔(42)
1989年 個人入賞 田川愛実(42) 森川美紀子(42)
以降広範囲、前衛 オブジェ部門 入り名称変わりやがて消滅 

上町台地よりの発信展

杉本直(8)が上六にある大阪最大のABCギャラリーの館長となり、卒業後も制作を続けている人を集めて1998年に開催。地下鉄の広告を安井誠(15)が担当、村岡三郎 森村泰昌の国際的作家も参加、各公募展の会員も出品し大展覧会になり同窓会有志より費用も頂いた。出品者の選択を佐々木先生が私に指名され大苦心。独立展出品の竹中かおり(41) 佐藤規子(44)を遠慮して貰ったり、出品できず苦にした人もいて、大勢の観客はあったが部活動低下で高津の生徒は少数であり高津美術部の終わりを告げるような展覧会になってしまった。

美術部の成長と衰退

Macintosh HD:Users:shibatamineko:Desktop:カンカン.jpg 大阪では知事賞を独占、全国では学校賞を独占、 飢えた猛獣家族が獲物をむさぼるような制作をするかと思うと自転車で生駒を越え法隆寺へ、何部か判らない程ソフトボールに熱中、文化祭には洋風新喜劇体育祭は男性のフレンチ カンカン、元旦は早朝集合、大和へ雪のスケッチ行、鼻水が画用紙をぬらす。

卒業生が楽しさと誇らしさを共有するためにクラブに集まる。学校も決して熱い生徒達の行動に水をさす事はなかった。最終電車に乗り遅れたり、今は弁護士になっている女性がバイトのハッピを着て深夜近く画室に来たこともあった。

それは夜明けにまだまだの時間。佐々木先生が「私が高津を止めて後は卒業生の増地君にやって貰う」。全日本学校賞6度は全国で追走できない格段の成績を残されその愛弟子に連ぐその選択肢は悪くはないが府教委を上まわる力に驚いた。増地君は他校で高津的熱心さで美術部を育てていたが、高津へ教師として着任し「高津の生徒は賢すぎていやや」と私も納得する言葉を聞かされた。増地の泥くさい身を削る指導で全日本では学校賞も2度獲得、彼の時代の受賞は驚くほど多い。まさに無敵美術クラブで高津美術の遺産を護ってくれたが校舎建て替えが始まり、それに意見を求められたが校長に眞く通じず学校の美術に対する態度が変化したことがわかった。私も歯科校医を後輩にゆずり校長と会うこともなく、沢山の先輩の残した作品の処分に追われている彼の姿は目に焼きついている。定年を前に教師を止めて制作だけの人となった。

校長に美術に対する関心で教師の選択ができるかは不明だが次に来た人の彫刻展を見たところ村岡さんを知る私には危機感があり、美術部員の把握は授業後直ちに帰宅の方では無理。合宿の相談に行くと「私がやる」と云っておきながら何もされない。崩壊が始まった。

民間校長が高津に配属された。増地君に府下で一番優秀な美術の先生は小西康弘先生ときいた。教室に冷房を入れるなど同窓会として奔走、そして小西先生獲得、美術部はこれで蘇る、卒業生と合同展をやり、また栄光の復活と喜んでいたところ、民間校長が教師という人格を理解出来ず多数の優秀な教師を失い、小西先生とは大喧嘩お二人とも高津を去られた。

世に受験校と呼ぶ嫌な言葉があるが高津にはその言葉で括られたくない。厳しいクラブ活動の中で根性を養い、今何をする時かを判断できる人間を作り、常に創造心を持ち続けることは机上の勉強より人間性、人としての実力を持つことに優れていることは社会での活躍によって明らかである。他の高等学校にも「自由と創造」と三次語録を校是とする学校は多い。学業成績によってそれを具現化することは出来ず、単に言葉のみである。振り返れば高津美術部の長い活動はそれを実現してきた、と胸を張れる。しかし今は歴史の中に埋もれるのか。

高校5期 額田 耕作